小田原で300年以上続く鋳物の工房で作られた小田原風鈴は風に吹かれると、軽やかでりんとした音を響かせる。鋳物製造販売会社「柏木美術鋳物研究所」(神奈川県小田原市中町)が得意とするのは銅と錫(すず)の合金で作る砂張(さはり)製。ガラス製など一般的な風鈴に比べ、「長く、余韻が残る」。社長の柏木照之さん(45)の言葉には、涼の音色を作り出す職人のこだわりが込められている。
同社が住宅街に構える現在の工房は昭和12年から使われている。空調設備はなく、金属を1千度にまで熱する工房内の室温は40度を超える。うだるような暑さの中で自身を含む3人の職人が溶かした金属を型に流し込み、冷やし、形を整える。
音を高くするために厚みを持たせるなど、狙った音を目指す。繊細な作業の中でも、砂張製は金属の微妙な配分や温度管理で音質が変わり、少しの衝撃でも割れてしまうため扱いがとても難しい。溶けた金属の温度を機械で測るが「感覚的に良いタイミングを見極めることも重要になる」。
同社の資料などによると、小田原の鋳物は天文3(1534)年に大阪・河内から来た鋳物師の山田治郎左衛門が製造を開始したことで始まった。鍋や釜など日用品の生産地として栄え、柏木家は貞享3(1686)年に小田原に移り住み、鋳物業を始めた。
時代が明治へと移り、大量生産が主流になったことで地場の鋳物屋が次々と廃業する中、柏木家は生き残るために砂張の技術を生かして風鈴、鐘といった鳴り物の製造に特化。先の大戦中はシンバルも手がけたという。大正初めに小田原にあった7軒の中で現在も続いているのは柏木美術鋳物研究所のみとされる。
時代の流れに対応し、磨かれてきた風鈴は今では外国人観光客にも人気となっており、地元の雑貨店、箱根のホテルで販売され、東京の有名ホテルのイベントでも使用されている。新型コロナウイルス禍では部屋の中でも楽しめるようにと、「鋳物製風鈴掛台」も打ち出した。
社長になったのは27歳のときだった。学生時代は後を継ぐことは考えもせず、システムエンジニアなどを希望していたが、手伝いをする中で「技術屋という意味では同じではないか」と思って鋳物の道に進んだ。当初は失敗を繰り返し、ベテランの職人から学んだ。「よく職人10年で一人前といわれるが、実感として確かにある」
20年ほど地道に作ってきた。それでもまだまだ気づくことは多い。やり続けていく中で技術を受け継ぎ、高めていくことで「想像を超えた音を届けたい」。(梶原龍)
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涼を感じさせる音や味、装い。感情を揺さぶる祭りの熱気。夏の暮らしに彩りを加える神奈川県内の職人を紹介する。