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「江戸風鈴」製作の舞台裏 大正以来変わらぬ製法で「日本一の音」を守る/東京


若者に人気のSNS「インスタグラム」には、マンションのベランダやお祭りなどで撮影された風鈴の写真が2000件近く投稿されている。なかには、工房で手作り体験をしている写真もある。これらの風鈴の短冊部分に見えるのは、「江戸風鈴」の文字だ。
大正時代から続く「江戸風鈴」、工房は国内2カ所のみ
この江戸風鈴の製作・販売を手掛けるのは、篠原風鈴本舗(東京・江戸川区)。1915(大正4)年に創業し、現在は業歴103年目を迎える。
3年前に、大黒柱であった3代目の篠原裕氏が病気で他界するという悲劇に見舞われたが、妻の惠美さんがあとを継ぎ、2人の娘と、3人の職人の家族経営で、伝統文化を継承している。なお、現在江戸風鈴の製造を手掛けているのは、篠原風鈴本舗と篠原まるよし風鈴(儀治氏の二男が経営、台東区)の2カ所のみ。
マンション住まいの世帯が増加するなど、日本人の生活様式が変化した今なお、新しいファンを引き付け続けている篠原風鈴本舗の江戸風鈴。魅力はいったいどこにあるのだろうか。
その製作過程は、極めて伝統的なものだ。1320度前後の炉の中で溶けたガラスのタネを長い吹き棹で巻き取り、本体を少し膨らませたら、その上半分にさらにタネを巻きつけてもう一度吹く。次に長い針金を棹の中に入れ込んで突き破り、糸を吊るす穴を開ける。さらに空気を入れて膨らまし、棹から切り離す。これは型を一切使わない“宙吹き”と言われる方法で、技法を身に付けるには長期間の修業が必要だ。
冷めたら、鳴り口にあたる部分を切り落とす。鳴り口をあえてギザギザのままにすることで、澄んだ音が鳴るという。できた風鈴は、内側から1つ1つ図柄を書き込む。こうして一から手作業で作られているため、ひとつとして同じ形や絵柄はなく、その音色もまた然りだ。
惠美氏は、3代目の裕氏と結婚して以来、絵付けを担当してきた。8色の油性顔料を油で溶いて、筆や刷毛を使い分けて風鈴の内側から絵付けをする。顔料をたくさん塗ると江戸風鈴特有の柔らかい音がこもってしまうので、その点には注意を払う。こうした作業を、1日当たり最低でも150個は手掛けるという。
人気のある絵柄は、時代によって変わってきた。「風鈴は元来、赤く塗られ魔除けの効果があるものとされていたので、昔は赤色が主流でしたが、今は透明感があって細かく涼しげなデザインに人気が集まっています」。惠美氏の得意な絵柄は、金魚だ。なお、「絵付けの前に音を鳴らしてみて、気に入らなければ、近くに置いてあるバケツに落としてつぶしてしまうこともあります」と、惠美氏。職人としての厳しさが垣間見える。
篠原風鈴本舗の現在の年間製作数は4万~5万個。秋から冬にかけて製作のピークを迎え、出荷対応に追われる夏場が一番の繁忙期だ。
卸売り店、百貨店などへの出荷に加え、インターネット通販も行っている。依頼があれば、オーダーメードの風鈴を作ってもらうことも可能だ。

若者や外国人観光客に製作体験が人気
風鈴の製作・販売に加えて、現在人気が高いのは、繁忙期を除いて行っている風鈴の製作体験だ。学校の社会科見学などの団体や個人に加え、近年は外国人観光客もやってくる。年齢層は、圧倒的に若い人が多いという。
篠原風鈴本舗の製法は、大正時代からの伝統がある。初代の藤田又平氏は、13歳のときに新潟県仁嘉村(現在の見附市)から姉を頼って東京へ上京。又平氏は、区役所戸籍係の給士として働くことになったが、慣れない接客も多く、わずか1カ月ほどで退所。行くところがなくなり、浅草の瓢簞池近くで餓死寸前寝ていたところをお坊さんに助けられ、仕事も世話してもらった。新たに働く場所となったのは、蔵前にあったガラス工場。そこで10年近くにわたり風鈴作りの技術を学んでいたのだが、親方が亡くなったのをきっかけに独立の準備を進め、1915(大正4)年に台東区入谷に風鈴工場を開業。その後、篠原ケサノ氏と結婚して篠原姓になった。 
現在会長を務める2代目の篠原儀治氏(1924年生)は、この又平氏の息子だ。「江戸風鈴」という名称は、江戸で江戸時代から作られている風鈴であることにちなんで、昭和40年頃に儀治氏が名付けたブランド。当時は、浅草のほおずき市や祭りが主な販売先で、その時期になると注文対応で多忙を極めた。「ほおずき屋さんが足りなくなった風鈴をここまで取りに来て「絵は何でもいいよ!」と慌てていたこともありましたね」(惠美氏)。
さらに、新たな販路も開拓してきた。30年ほど前から、市場には中国や台湾産の型吹きの輸入品が数多く出回り、見た目が悪い(絵がシール)、音が悪い、雨が降ったら絵が消えてしまう、ガラスがもろいといった粗悪品も増加してきた。そうしたなかで、品質や見た目にこだわった江戸風鈴の評価が徐々に高まり、百貨店向けの販売なども拡大していった。
2代目の長男、裕氏と結婚して初めて風鈴の世界に入った惠美氏は、目を細めつつ当時を振り返る。「当時は、休日がない、夜は寝ない、朝起きればみんな起きているという生活。『なんでこんなに働くのだろう』と毎日驚いていました」。当時、儀治氏と裕氏は朝7時から吹く(風鈴を膨らませる)ために朝5時に起きて炉の準備をしていたそうだ。
こうして長年、個人事業者として風鈴の製作を手掛けてきた篠原風鈴本舗は、2005年に有限会社として法人改組、代表取締役に3代目の裕氏が就任。取締役として、裕氏の妻・惠美氏が就任した。
創業100年目に3代目が急死も、伝統を守り続ける
だが、創業100年目を迎えた2014年、前述のように3代目の裕氏が病気のため亡くなるという悲しい事態に見舞われた。64歳だった。
「夫のほかに職歴20年の職人が2人いたので何とか製作を続けることができました。娘が3人いますが、長女(由香利氏)と三女(久奈氏)は家業に入り、それぞれ絵付けをして、三女は製作もやっています。長女の夫(公孝氏)は、結婚を機に6年前から風鈴職人として働いており、現在は私のほか、男性職人3人、娘2人の計6名で頑張っています」(惠美氏)
こうして、何とか伝統を守り続けるなかで、思わぬ脚光を浴びる機会があった。昨年、とあるTVの人気番組で、風鈴の音に詳しい大学教授が1000種類のなかからオススメ風鈴7選を発表。そこで、篠原風鈴本舗の江戸風鈴が第1位として紹介されたのだ。こうしたメディアでの紹介も影響してか、江戸風鈴に興味を持つ若者や外国人観光客が増えているのだ。取材に訪れた6月某日も、篠原風鈴本舗には若い女性客の姿が目立った。
伝統を守り続けるだけでなく、時代の変化にもきちんと対応している。最近は、マンション世帯が増加するなどの生活様式の変化によって、「風鈴をどこに飾ればいいのかわからない」という相談を受けることが多い。そこで、風鈴だけでなくおしゃれなインテリア感覚の風鈴スタンドも販売することにした。国産鉄のスタンドや、静岡の伝統工芸である手作りの竹製スタンドなどもあり、都心の高級ショッピングモールにも納品しているという。さらに、軒先がない家の場合は、玄関を開けたときの風やクーラーの風で鳴らすなど、現代の住環境ならではの楽しみ方も教えてくれた。
江戸風鈴を守り続けていくうえでの課題も多い。
「テレビを見ていると、画面は江戸風鈴なのに、音は鉄風鈴になっていることがよくあり、違和感がある。皆さんに江戸風鈴をもっと知ってもらわなければと思っております。
時代の変化に伴って、風鈴の製作量は徐々に減ってはいますが、若い方や海外の方など新たに興味を持ってくれる方たちのためにも、販売だけではなく、製作体験、見学など江戸風鈴を知ってもらう機会を可能なかぎり増やすことにも力を入れていきたいと思います」(惠美氏)

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