江戸時代と同じく、吹きガラスに手描きで一つ一つ絵付けをする伝統工芸品「江戸風鈴」。300年の歴史を誇るが、今や製造元は日本にわずか2軒しかない。そのうちの一つ、篠原風鈴本舗(東京都江戸川区)を継承しているのは、3代目の長女・篠原由香利氏(43)だ。家族の風鈴作りを見ながら育ったものの、家業を引き継ぐにはさまざまな困難や心の揺れもあった。人気アニメとコラボするなど、伝統工芸の世界に新風を巻き起こしつつある由香利氏に、爽やかな音を生み出すものづくりを引き継いだ経緯を聞いた。
◆家の手伝いが嫌いだった小学生時代
----子供の頃から、家業を継ぐことを意識していたのですか?
継げと言われたことはありませんでした。
4歳下の妹の方が「私が継ぐ」と言っていたので、じゃあ私はやらなくていいかな、と思っていました。
ただ、家の手伝いはさせられました。
小学校低学年ごろは、出荷する風鈴の箱詰めや、お祭りなどで風鈴を売る手伝い。
小学校高学年になると、花びらの真ん中を黄色に塗る程度の簡単な絵付けもするようになりました。
でも私は、お手伝いは嫌いでしたね。
遊びたい夏休みに限って家は忙しかったので……。
----大学は、美術系ではなく文学部に進学されたのですね。
家の仕事をすることは全く考えていなかったので、ガラスや絵の勉強をしようとも思いませんでした。
むしろ対照的な、午前9時~午後5時で帰れて、土日も休めるような仕事に就きたかったんです。
それなら普通の学部に進んだ方がいいということで、興味のある文学部に進学しました。
----しかし、大学卒業後は、篠原風鈴本舗に入社します。どういった心境の変化があったのでしょうか?
私はちょうど、就職氷河期まっただ中の世代なんです。
周りは50社、100社受けた話が当たり前でした。
私もいくつか説明会や入社試験に臨んだのですが、一次は受かっても面接で落ちるなど、非常に苦労しました。
その頃、自分が会社の中で1つの歯車になって、どんな仕事をするのか、どうも具体的なイメージがわかなくて。
そう考えたときに、「風鈴を作る」だったらすんなり腑に落ちるなと、ふと思ったんです。
----いざ社員として入ってみて、お手伝いをしていたころと違った点はありましたか?
入社を前提として大学4年のゴールデンウィークには、大阪に実演販売に行ったりしました。
分かったのは、風鈴を作るだけではなくて、売らないといけないということ。
今まで自分の頭になかった部分でした。
作るだけなら、一人で黙々と作業していればいい。
でも、売るとなれば、知らない人に対して「いらっしゃいませ」から、たくさんのコミュニケーションを取らないといけない。
私はまず「いらっしゃいませ」すら言えなかったのです。
接客のアルバイトも経験がなく、最初に大阪に行った時も、自分からお客様に声がかけられないので下を向いてひたすら風鈴に絵を描いていました。
----苦手な接客は、その後乗り越えられたのでしょうか?
三越や高島屋といった百貨店でよく販売していましたが、当時の私のような経験のない若い子が一人で行くと、周りのベテラン社員の方々が世話を焼いて助けてくれました。
なにしろ私は、包装してくださいと言われても包み方も分からないし、配送伝票って何?というレベルでしたから。
日本橋あたりの百貨店だと、お客様も懐の深い、寛容な感じの方が多いので、こちらも安心してだんだん慣れてきて「いらっしゃいませ」「さようでございますか」といった受け答えもできるようになりました。
そういう場所で販売の経験が積めたことは、運が良かったのだろうなと思います。
◆父の死を乗り越えて
----由香利さんが入社して10年が過ぎたころ、3代目のお父様(裕氏)が肺がんにかかり、会社の体制は大きな変革を迫られます。どのように対応したのでしょうか?
2013年の秋、父の病気が分かった時に、これからどうしていくか、という話を家族でしました。
ガラス吹き担当が1人いなくなるだけでも大変なことなのに、しかもそれが父だと3人いなくなるくらいのダメージです。
でも、すでに注文を受けた分は納めなければいけないので、動揺している場合ではなく、とりあえずやるべきことはやらないと、という状況でした。
----由香利さんが4代目として会社の顔になることは、その時に決まったのですか?
誰が継ぐというような具体的な話はまったくしていませんでした。
江戸川区伝統工芸会と江戸川伝統工芸振興会には私の名前で入りましたが、父の没後に社長を務めているのは母です。
私は「4代目です」と自ら名乗ったことはなく、周りに「4代目」と言われるので、じゃあそういうことにしておこう……という感じです。
父が亡くなる前、私に「大丈夫そう?」と聞くので、「うーん、やってみないと分かんない」と答えたのを覚えています。
父は「そうだよね」と言っていました。
覚悟や決意というよりは、とりあえずやってみて、だめだったらその時はその時で考えよう、始まりはそんな気持ちでした。
◆チャンスを無駄にせず全力で応える
----その後、江戸風鈴の伝統は守りつつ、新しい絵柄や商品にもチャレンジされていますね。
江戸風鈴を作っているのは日本に2軒だけという希少さもあり、幸いにもいろいろなコラボレーションなど新しいことに挑戦できています。
基本的にうちの家はみんな運がいいんです。
祖父(2代目・儀治氏)も、戦争で死なずに帰ってきました。
私も運のよさを引き継いでいるんだと思います。
そのおかげでいままでやってこられた部分が大きいですね。
【「鬼滅の刃」に出てくる風鈴】
◆大量生産ではないからこそチャレンジできる
----由香利さんの代になって、伝統的な柄だけでなく斬新な絵柄の風鈴を作っていますね。
先代の父も、招き猫の風鈴を作ったりして、新しいものには挑戦していました。
私が2011年、東京の伝統的工芸品チャレンジ大賞奨励賞を受賞した作品は、東京の街並みを描いたものでした。励みになりましたね。
伝統的な金魚や花も素敵ですが、今の人は部屋も洋風だし、もう少しそこにマッチするような柄もあっていいと思います。
----絵柄のヒントはどういうところから?
私はロックが大好きなので、ドクロの柄を描いてみたらとても好評でした。
浮世絵なども、仕事のためというより好きで見ているので、アイデアはいろいろ頭の中にあります。
常に周りにアンテナを張っている感じですね。
大事なのは、頭の中で「こういうのどうだろう」と考えているだけではなく、まず形にしてお客様に見てもらうことです。
うちはすべて手作業なので大量生産はできず、商売の観点では弱点かもしれません。
でも、ラインの決まっている工場では「1個だけ」を作ることはできません。
「とりあえず1つ作ってみる」ができるのは、うちの強みだと思います。
◆コロナ禍の苦境を救った「アマビエ風鈴」
----コロナ禍の時、会社にはどういった影響がありましたか?
2014年にガラス吹きの主力だった父が亡くなり、作れる数が大幅に減ったため、風鈴作り体験教室に力を入れました。
ところが、コロナ禍で体験申し込みのキャンセルが相次ぎ、例年は夏に5~6回はあった百貨店などの催事もすべて中止になりました。
夏に窯の火を止めたのは、私の記憶にある限りこの時が初めてでした。
決まっている注文だけはこなしていましたが、経営はもちろん赤字ですし、この状態がいつまで続くのかもわからず、不安な日々でした。
----そんな苦境を乗り越えられたのは、ある商品のおかげだったとか。
当時、疫病よけの妖怪アマビエを描いて投稿するのがSNSで流行っていて、うちでもアマビエの風鈴を作って投稿しました。
すると、ある新聞社の目に止まって取材が来たんです。
記事が出ると、アマビエの風鈴が欲しいという人が多く、ネットショップでもかなりの売れ行きに。
数十個が30分足らずで売り切れたこともあるほどで、夏の間はずっとアマビエを描き続けました。
風鈴は元々魔除けの意味があったそうですから、原点に返った商品かもしれませんね。
◆コラボレーションは知名度拡大のチャンス
----その後、アニメーションとのコラボレーションで、風鈴が注目されることになりました。その経緯は?
アマビエ風鈴を作っていた頃、アニメ「鬼滅の刃」の制作会社から、劇場版アニメの中で江戸風鈴の音を使いたいという申し出がありました。
風鈴は、映画の終盤でとても印象的な使われ方をしていて、登場したものと同じ柄の風鈴をグッズとして販売したところ、大人気になりました。
----その他にも漫画やキャラクターなど多数のコラボ商品がありますが、コラボレーションについてはどう思われますか?
ありがたいことに、こちらからコラボをしましょうと売り込んだことはないんです。
いただいたお話は、絵柄や数量などの点で無理がない限り、お断りすることはほとんどないです。
コラボは利益率が高く、何よりそれまで風鈴に縁のなかった方に知ってもらう機会で、とても良いチャンスだと思っています。
◆「商売が下手」と言われる
----4代目として会社の経営面を見た時、現状の課題はどんなことがありますか?
生産量をもう少し上げたいです。
今は私と母、妹、私の夫、2人の職人さんと計6人で作っていますが、父が亡くなって以来、下がった生産量はリカバーできていません。
求められる絵柄も変わり、1個あたりの手間が昔より増えていることもあります。
原材料や燃料の高騰を考えると、売価はもう少し値上げすべきなのでしょうが、やはりためらいがあります。
事務や経理は母と妹に任せていますが、母からは「商売が下手」と言われます。
でも、うちの人たちは基本的にみんなどんぶり勘定で、まあいいか、何とかやっていくしかないね、というタイプ。
もう少しお金をきちんと見る人たちだったら、そもそも風鈴屋はやめていたかもしれません。
◆伝統を守っているのは使ってくれるお客様
----今後、江戸風鈴はどのように継承されていくと思いますか?
私も妹も子供がいませんし、もし私の代で会社が終わったとしても、後悔したくないという気持ちで風鈴を作っています。
風鈴は生活必需品ではないので、なくなっても困らない。
求められなくなれば消えてゆくのは自然な成り行きです。
ただ、何か新しい使い方が生まれるとしたら残る可能性はあり、その可能性を広げてくれるのはお客様です。
父も「伝統を守っているのは自分たちではなく、使ってくれているお客さん」と言っていました。
まずは単純に「かわいい」と目を止めてもらうことが大切です。
伝統的な部分は大切にしつつも、時代に合わせて新しいことにもチャレンジしていく勇気が必要だと思います。
今、江戸風鈴の店は2軒だけで「江戸風鈴業界」というのはありませんから、「こんなものは伝統ではない」と言う人は周りにはいません。
だからこそ好きなようにやれています。
「老舗は最先端を行く」が祖父の口癖でした。
その精神は私も大事にしていきたいと思います。
■プロフィール
篠原風鈴本舗 篠原 由香利 氏
1981年東京都生まれ。大学卒業後の2004年、家業の篠原風鈴本舗に入社。3代目の父・篠原裕氏の没後、篠原風鈴本舗の顔として「江戸風鈴」を世に広めている。風鈴作りでは絵付けを担当し、伝統柄から現代の暮らしになじむモダンなものまでさまざまな風鈴を制作。音楽、アニメほか異分野とのコラボレーション作品も多い。平成23年東京の伝統的工芸品チャレンジ大賞奨励賞をはじめ数々の賞を受賞。江戸川区伝統工芸会、江戸川伝統工芸振興会会員。なお「江戸風鈴」は2代目篠原儀治氏が江戸時代と同じ製法で製造している自社の風鈴を商標登録したブランド名である。